カウンセラーというのはクライエントさんに依頼されるのを待つ職業である。
つまり「カウンセラーは選ばれる立場」なのだ。
したがって、「自分だったら、自分のようなカウンセラーに相談したいと思うか?」ということを常に自問しながら研鑽に励んでいる(つもり?)。
誰だって、勉強不足であったり人間的に信頼できないようなカウンセラーに、お金を払ってまで自分の悩みを打ち明けようとは思わない
そういったわけで、星の数ほどのカウンセラーの中から、縁あって私を選んでくださったクライエントさんとの出会いに、ある種の運命的なものを感じつつカウンセリングを行わせていただいている。
ところで、カウンセラーとしての条件は何かと考えたとき、人間性であったり、専門的な知識や能力・技術であったりするのは当然なことだけれど、もう一つ重要なことがある。
それは共感能力である。
「同情」ではなく「共感」ができるかどうかが、カウンセラーの向き不向きを決めるといってもいいと考えている。
「同情」は他者の感情、とくにネガティブな感情である悲しみや苦しみを、その身になって共に感じることである。受動的に感じるだけなので、単なる自己投影であったり、相手の感情に飲み込まれてしまう場合も多々ある。
分かりやすくいえば、感動的な映画を見たときに泣いてしまうのと同じ状況である。
一方「共感」は、同情と同じように「他者の感情を推し量り、その身になって感じる」点は同じであるが、ネガティブな感情だけではなく、楽しさや喜びといった感情も共有する。
ただ共有し、感じるだけではない。同時に、相手の心理状態や立場、生活状況等を客観的に把握し理解することが重要なポイントとなる。それを「共感的理解」という。
クライアントさんと感情を共有しながら、あらゆる角度からその心情を深く洞察理解し、支えと援助を提供できなければならない。したがって「共感」はひじょうに能動的な行為なのである。
それでは「共感」するためには何が必要か。
いや、何が必要でないか、といったほうがよいかもしれない。
特定の思想や信念、常識、価値観、正義感といったものはいらないのである。
それらに囚われると、カウンセラーを信頼して他ではけっして話すことのない本当の気持ちを吐露してくれたクライアントさんに、「それは間違っている」「○○すべきだ」という主観が頭をもたげてくる。
場合によっては、怒りや軽蔑、責める気持ちといった否定的な感情がわき起こり、クライエントさんをジャッジしたり、自分の尺度で偉そうに説教したりすることになる。
そういう意味では、あらゆる思考、思想信条、価値観を持った人々をできる限り対等公平にクライエントとして受け入れることのできる、ゴムのように伸縮自在な心の柔軟性が求められるのがカウンセラーなのだ。
もちろん、「どうしても共感するのは無理!」という場合には、カウンセリングを丁重にお断りするしかないだろう。
そのときどきの時代背景から生じた文化やイデオロギー、価値観に囚われることなく、本当の意味で人間の成り立ちを深く理解し解釈できること。カウンセリングの「共感」にはそれが必須であると考えている。
「共感的理解」のあとの心理療法は、クライエントさんによってもカウンセラーによっても多種多様、ケースバイケース、対応は様々である。
「死にたいんです」という言葉を、カウンセリングによって、たとえば受容したとしても、叱ったとしても、その前に「共感」ができているかいないかで、クライエントさんの回復への行程、効果が大きく変わる。
「共感」はカウンセリングのスタート地点なのである。
といったことを息子に熱く語っていたら、
「それも信念の一種だよね 」
むむむ、口の減らないヤツである。